戦国時代は大村氏の所領であった長崎は、1580年以来イエズス会に寄進されていたが、九州を平定した秀吉は1588年長崎を直轄地とし、長崎奉行の前身をつくりました。
秀吉死後、関ヶ原の戦い勝利した家康は秀吉の蔵入地を収公し、長崎行政は江戸幕府に移管された。初期は家康の息子秀忠側近の大名が任ぜられたが、やがて小禄の旗本が、のちには1000 – 2000石程度の上級旗本が任ぜられるようになった。長崎奉行は幕末まで常置され、有名な東山の金さん(遠山 景元)も(1812年812年〜-1816年に長崎奉行として配属されてます。
東山の金さんと龍馬さんが長崎にいた間のお話・・・
フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト
日本に1824年「鳴滝塾」というお医者さんの学校を作り、西洋医学(蘭学)教育を行い、日本各地から集まってきた多くの医者や学者に講義したシーボルトさん!
長崎弁でいう「ゲナゲナ話」をすると・・・
じつはシーボルトさん!オランダ人ではないんです!
本来はドイツ人です!
シーボルトの話すオランダ語は、日本人通訳よりも発音が不正確であり、怪しまれたが、「自分はオランダ山地出身の高地オランダ人なので訛りがある」とか言いながらその場を切り抜けたげな(らしい)。
本来は干拓によってできた国であるオランダに山地は無いが、そのような事情を知らない日本人にはこの言い訳で通用したとさ・・・(笑)
そして・・・
1828年に帰国する際、先発した船が難破し、積荷の多くが海中に流出して日本の浜に流れ着き、積荷の中に幕府禁制の日本地図があったことからスパイ容疑がかけられて、出国停止処分を受けたのち国外追放処分となる・・・
これがシーボルト事件です!
1823年 から 1829年のたった6年間!
さぞ、長崎に来たかったでしょうね。
それから30年後に日本が開国になり再び日本に来日して対外交渉のための幕府顧問となったり、やっぱり偉大な方なんですね〜
そんな、シーボルトさん!
じつは、私たち「コーヒー」のことをたくさん手記や「薬品応手録」という辞典にも書いてます。
ただし、
「なぜコーヒーという文化が二世紀(1600年代)前に入って来てるのにお茶ばっかり飲んでんの?」
シーボルトさんのお陰で私たちはコーヒーを飲むようになりましたよ。
そして、大変失礼ながら・・・
シーボルトカプチーノも作ってます(笑)